幼少の頃から教わるより自分でやって覚えるという生き方をしてきた。それはなぜかというと、教えてもらうことがよくわからなかったからだ。
数学を例にとると「この方程式だから...」みたいな教え方をされたことがあり、中学1年生のときの数学はそれはもう悲惨としか言いようがないくらいまるで理解できなかった。でも、なぜそうなのか、その意味が自分でわかるようになった3年生のときには成績も一気に上がり、わかることがとてもおもしろかったことを覚えている。
高校3年生のときには先生の代わりに授業をしたこともある。もちろん事前に先生との打ち合わせをし準備も怠りなくしたうえでの授業だったが、自分がわからなかった部分だけでなくみんながわからない部分がどこなのか把握できたとともに、「教える技術」を学べたことはとても大きな収穫だったように思う。
社会人となったときはさすがに教えてもらうことが多かった。だけどそれも半年ほどすれば教える側になっていた。自分で意味を考え、「なぜそうするのか?」を徹底的にシンプルに分解していく癖がついていたせいか、教えるべきポイントを誰よりも早く把握でき、かつ伝えることができるようになっていたからだ。
それからというもの、教えることが仕事のひとつになっている。教えることが本来の仕事ではないのだけど、ことあるごとに教えるという仕事をお願いされてしまうのだ。それも明日の何時からあるのでそれまでに資料も作成して...などといった無茶な要求さえあるのだが、その要求にもさっと応えてしまうのでまた依頼が入ってしまう。
最近では、「教える技術」を教えるのが仕事のひとつにもなっている。いろいろと自分の仕事を抱えている中で教えることが二重三重になってくるのでそれはもう大変な渦の中でぐるぐる回っているようだが、実は徹底的にシンプルな考えにしているのでなんら大変なことはないのだ。
「教える技術」が身に付いている人は、私と同じように徹底的にシンプルにしている人が多い。曖昧で抽象的な言葉ではなく、具体的になぜそうなるのか、なぜそうすべきなのかをきちんと伝えているように思う。
最近では、それだけシンプルにしても伝わらなくなっていることがある。だから「教える技術」をもっと分解しさらにシンプルにしなければいけないのかなと考えている。とあるコラムでは教えるための計画書を一度作ってしまえばずっと使えるようなことを書いてあったが、教えられる側のレベルがどんどん下がっていることに気がついていないとしか言いようがない。
「教える技術」だって変化に対応しなければいけない。
そんなことわかっている?
いや、それがわかっていないから教えることができないベテランだっているのだ。

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